貧と美


「くらはんか」類の染附小品を眺め乍ら、貧と美との関係を想う。顧みて私
      ゲテ
はなぜかこの下手な染附に心を惹かれる。いつも近づいては話しかける。何

も異数な品というわけではないが、いつ見ても親しさを覚える。世間が認め

ないなら、私はいつだって弁護したい心が起こる。若し天国で品物に色々な

位階が設けられているとするなら、これ等のものは却って神の御座に近い所

に位置を占めているに違いない。イエスが保証した言葉を想い出すではない

か。「心の貧しい者は幸である。天国は彼等のものなれば」と彼は云う。

「くらはんか」類の品を眺めて、この言葉の嘘でないのをいつも想う。この
          ゲボン
世ではごく平凡な寧ろ下品の物ではあるが、地上での位と、天国での位とは

甚だ違う。こういう品を見る毎に、何か救いが誓われているのを信じないわ

けにゆかぬ。もともと救われるような事情のもとで作られるのだという方が

早い。その不思議に就いて何か考えてみたい心が起こる。なぜこのような品

が美しいか、美しくなるか、何が美しくさせているのか。色々な真理をそこ

から貰う。

 第一材料に貧しさがある。不思議にも美しさはそこから盛り上がる。その

当時(又今でも)粗末にされた材料より使いはしなかったのである。だから

この美しさが保たれているのである。

 読者は私のこの答えを不合理と思われるかも知れぬ。何か好んで逆説でも

述べるのだと取られるかもしれぬ。併し若しもその当時、あの極上の純白な

(今では精製した)磁土を使っていたら、「くらはんか」の味わいは決して

出なかったであろう。その美しい潤いのある膚色は、ごく並の磁土より使わ

なかったお陰である。ここで人間はそれをごく粗悪な素地だと呼ぶが、自然

から見て、それが実は一番素直な必然な材料だといわれないであろうか。だ

から実際には素晴らしい素地なのである。二番手、三番手にされている素地

の方がずっと力があり潤いがある。素地が悪くて、どうしてこんなにも美し

い調子が現れようか。人の眼と神の眼とはこの場合必ずや違う。人間がそれ

を並のもの下等の品と見ているに過ぎない。だがその貧しい資材に更に多く

自然の心が働いている。若しも材料に所謂貧しさがなかったら、かくも美し

さで富みはしなかったであろう。


 用いられた呉州だとて同じではないか。色を見ると又となく美しい。穏や

かで渋くて親しみが深い。なぜこのような美しさが出るのか。全く安ものの

呉州を用いたからである。こんな雑器に上等なのを使っては引き合わない。

安ものというのは不純物が多く交っていて、ために綺麗な色が出ないからで

ある。だが不純だというのは人間の立場からいう嘆きである。却って様々な

成分が混っている状態こそ、一番当然な自然な性質を現しているとも云える。

純粋な呉州だけというような物こそ却って不自然な例外の場合とも云える。

だから所謂不純な安ものの呉州の方が却って美に深さを添える。複雑な神秘

な自然の性がそのまま現れてくる。「くらはんか」類の染附に於いて、色は

決して浅薄であった場合がない。若しも精製した純呉州を用いたとしたら、

色はあの落ちつきを失ったであろう。化学が作る近頃のコバルトが俗な色に

落ちるのは、自然の深さを欠くからである。人間からすれば発達した純粋な

ものかも知れぬが、自然の眼から見たら、幼稚な単一な却って不当なものと

見られるであろう。実は近頃のコバルトより、安ものの自然の呉州の方が、

もっと奥深い化学的成分を含んでいる。だから美しいのである。悪い呉州は

ここで不思議な働きをする。悪いと呼ぶのは浅はかな評ではないか。貧乏な

「くらはんか」はこの逆理の上に静かに休んでいる。


 この種のもので誰も気づく驚きは、紋様の種類が如何に多いかということ

である。窯跡に棄てられた破片は限りなく蒐集の心をそそる。昔の職人達が

どんなに創造の力に富んでいたかを想わせるではないか。だがもっと注意深

く、彼等に近寄ってみよう。その驚くべき多くの模様は、実は大勢の人達が

集まっての仕事である。何も個人個人が無数の模様を有っていたわけではな

い。一人の職人は、否、時として一つの窯は、恐らく五、六の、多くて十ば

かりの模様より有ち合わせていなかったであろう。彼等は何も天才に閃く美

術家達ではない。提灯屋の片手間仕事の場合もあったであろう。眼に一丁字

もない婆さん達が働いた場合もあろう。時としては小さな子供にまかせた仕

事であったろう。その貧弱な有ち物である僅かの図柄が、これ等の染附とし

て現れているのである。その絵の美しさは、恐らく題材を少しより有ってい

なかったことに原因があろう。僅かばかりであったからこそ、かくも充分に

自由に描きこなせたのである。仮に何でも描いたとしたら、随分まづい絵よ

り描けなかったであろう。彼等には幸いにも僅かばかりの有ち合わせよりな

かったから、十二分にそれを美しく描けたのである。彼等の無能が驚くべき

芸能を生んだのである。彼等は強いて模様を数多く有とうともしなかったで

あろう。教わった幾つかのもので沢山だったのである。だがこの無慾が絵の

美しさを保証したのである。何も彼等の絵の凡てが優れているというわけで

はない。だが一つとして罪深いものの無いことは、近頃の作家の場合といた

く違う。雑器に見られる染附の美しさは、寧ろ画能の貧しさを逆に活かした

ところから生まれている。しばしば出逢うその素晴らしい名画は、画らしい

画すら知らない者の所産である。このことより不思議な真理があろうか。名

もない職人達よ、心配するな。一つの安全な道が君達のためには用意されて

いるのだ。筆者はその真理を君達の作ったものから教わったのだ。


 しかもそれ等の絵がなぜ美しくなったか。充分な余暇が無かったからだと

答えてよい。暇が無くては絵が描けぬという弁明は、この領域では意味をな

さない。若し職人達が充分な暇を有っていたら、こんな絵は描きはせず、描

けはしなかったであろう。その美しさは多忙な生活の贈物である。若しゆっ

くり出来るような仕事であったら、又気の向いた時だけ作っていいようなも

のであったら、決して「くらはんか」の味は出て来ないであろう。あの有名

な画家達に必要な感興や興奮や、そんな薬は飲みたくも無かったのである。

否、そんなものがあったら、こんな仕事は止めたであろう。忙しいしかも単

調な仕事であってこれが生まれたのである。註文にせかされ、汗にぬれて仕

事したから、この染附の美しさが保証されたのである。労働が無かったらこ

の美は存在を許されはしなかったであろう。若しも世界が凡て遊んで暮らせ

るものであったら、如何に無数の美しい物が、この世から消え去ったであろ

う。美と労働とは結縁が深いと知らねばならぬ。何も凡ての形の労働が美を

生むというのではない。しかし暮らしのための労働からのみ出てくる美が実

に多いことを知ってよい。美を余暇の所産だというのは片手落の見方である。

少なくとも工芸の領域に於いて、労働の意義は大きく又深い。


 この事実を又こうも云える。「くらはんか」等の美しさは、安物だったか

ら与えられたのだと。安物でなくば、出難い美しさなのであると。安物とい

うとすぐ悪い品を連想するのは単なる観念の判きに過ぎない。物が安いこと

直ちに醜いとは云えない。近頃のような事情では不幸にもそれが一つになり

易い。だが社会事情が違った昔を、今の物差で推し測ってはならない。安い

品物という境遇のみが保証してくれる美しさの存在を忘れてはならない。庶

民の用いる雑器の如きを、美の領域で語るのを軽蔑する人もあろう。しかし

眼力があればそんな態度は取れないであろう。

 絵を見られよ、少しだって卑しい個所はない。これだけ自由に活々と描こ

うと思ったってすぐには近づけない。あふれる如き雅趣さえ多分にあるでは
                         スイゼン
ないか。南画の小品といってもよい。真の茶人がいたら垂涎三尺のものがあ

ろう。なぜそうまでに美しい物になれたか。安物だったからと答えて間違い

はない。第一安物でなかったら、こんな描き方に進む機縁を失ったであろう。

安物だから美しいということは、社会的に見て経済的に見て重要な意義が現

れてくる。ここで念のため言い添えておこう。何も凡ての安物がよいとか、

安物でなければよいものが無いとかいうのではない。この世には安物でなけ

れば生まれない美しさがあるということを理解してもらえればよい。そうし

てかかる美しさには素晴らしいものがあるのを見届けてもらえればよい。だ

から安価と美とを背反するもののように心得るのは全く間違った概念だと悟っ

てよい。しかもこのことが真実なら、将来この事実を益々発展させ生長さす

ことに努力したいではないか。なぜなら安いものだから美しいという観念が

新たに生ずるなら、これほど慶賀すべきことはないであろうから。美しいも

のを安く作ろうとすればむづかしい。だが安いから美しくなる道を見出した

ら、美の世界は広々としてくるであろう。

 この反面には有難い真理が寄り添う。高価な品が凡てよいとは決して云え

ないことを。それのみではない、贅沢な品物は概して病いに罹り易いことを。

野育ちの花に比べると、温室の花は虫がつき易い。この事実は私達を安心さ

せる。若し値の高いものでなくば、健康なものが無いとするなら、如何に吾

吾は不安に襲われるであろう。だが神はこの世をそう仕組みはしなかったの

である。安い物に却って多くの希望を托した。これより感謝すべきことが又

とあろうか。これが納得出来れば、工芸の現状は方向を一変するであろう。

              ゲテ
 これだけではない。これ等の下手な染附の美しさは、早く多く作ることに

由来する。この世の品物には、沢山作られてこそ益々よくなるものがある。

僅かより出来なくてよいものもあろう。しかし沢山作らねばならぬような品

物が、沢山作ることで益々美しくなるとしたら、そういう物にもっと肩を持

ちたいではないか。少ししか無い物より、ざらにある物が美しくなる方が、

もっと祝福すべきことではないか。幸にもこのことが可能なのを「くらはん

か」は聞かせてくれる。美しい物は少数より出来ないとか、少しより出来な

い物のみ美しくなるとかいうなら、呪わしい世とも云えよう。しかし神の摂

理はもっと微妙である。多量に反復し複写せねばならぬ品物にも美を贈る。

進んではそういう物のみが有ち得る美を贈る、そういう事情なくしてはみち

得られない尊い美を贈る。「くらはんか」の美しさは沢山作れた「くらはん

か」の特権なのである。只技巧や想意でそれを真似ても近づくことは出来な

い。あの平凡な「くらはんか」は素敵な事情のもとで美しくなるのである。

多量とか、反復とか、安価とか、迅速とか、それ等を故なく呪ってはならぬ。

 只外から眺めれば気の毒な状態ともとられよう。しかしそれが活々と素晴

らしい美しさを与える糧にさえなるのである。それ等のことを只呪うべき事

柄に終わらせて了うのは、何か手落ちが人間にあるのである。或は社会に欠

陥があるのだともいえよう。しかしそれは神の意向では決してない。私達は

少数の物より沢山の物を美しくしたい。この時沢山作るということから生ま

れる美しさがなかったら、永遠に無益な努力を重ねるに終わるであろう。し

かし幸にも美しいものを沢山作るということではなく、沢山作るから美しく

なるという恩寵が準備されているのである。このことが充分解ったら、この

世はもっと美しくなるであろう。


 ここまで述べて来て私はもう一つ肝腎なことを言い添えねばならないのを

感じる。「くらはんか」の如き下手な品物の美しさは、それを作った人達の

貧しい生活がなかったら決して生まれてはこないのだという事実を。何も貧

乏な境遇にいたからそういうものを作ったと単にいうのではない。貧困の生

活が有つ謙虚さが、積極的に品物の美しさに働いていることを特に注意した

い。若し作る者に貧しい生活が無かったら、品物はもっと騒がしく、高ぶっ

たものとなったであろう。或は又技巧を凝らしたり、華かに着飾ったりした

であろう。それは幸にも王侯や金持ちから命ぜられた仕事ではない。民家で

不断遣いにされる雑器として作ったのである。謂わば作る者が自分に近い民

衆のために用意した品物である。だからどんな作より彼等の生活がぢかに現

れてくる。そこに見られる質素な美しさは貧の徳から生まれたのである。

 こういうと私は色々非難を受けるであろう。貧乏という悲惨な事実を肯定

するどんな思想も、人間の理想に矛盾すると。貧困からどうかして人間を救

うことが、吾々の任務ではないかと。いくら雑器に美しさがあっても、若し

それが貧困の生活から生まれて来るなら、かかる美しさは人間の恥辱ではな

いかと。なるほど貧しさということを経済的な意味により取らなければ、そ

う難詰されても仕方がない。特に今の世は経済的困窮に悩んでいるのである

から。それ故貧に満足する者は絶え、富への愛慾、延いてはその謳歌が至る

所で盛んである。貧は決して地上の幸福を約束しない。それ故かかるものを

認めようとする教えがあれば殆ど誰からも解されはしないのである。

 だが問題はそう簡単ではない。若しも道徳人として人間を眺めると、富は

そんなにも幸福を保証するか。特に心の置場を健全にするか。事実から見て

色々な道徳的欠陥が伴いがちではないか。これに反し貧乏な生涯に何か特権

はないか。富者よりも貧者の方がもっと謙遜や正直や素朴と交わるではない

か。だからもっと神の意に適う生活に近づくではないか。奢る都会の人達よ

り質素な田舎の人達の方になぜもっと誠実な人間が多いか。貧乏が罪の原因

をなす場合はあろう。しかしそれは貧乏を呪って富貴を求める所から来る罪

ではないか。貧乏であることと罪とは何も因縁はない。富こそその因縁にま

つわるといってよい。

 私は何も貧窮から来る物質的悲惨を讃美しようとするのではない。だが貧

の状態と必然に縁故の深いもろもろの徳に就いて考えているのである。色々

な意味で職人達より私達の方がもっと罪深い人間だと懺悔しないわけにゆか

ぬ。特に片田舎の貧しい暮しをしている職人達を見ると、自分の足りないも

のを振り返らないわけにゆかぬ。それ等の人達は経済的にこれという特権を

有ってはいない。しかし罪から遠い心の状態に於いて、吾々より優れた幾多

の特権を有っているのである。あの「くらはんか」の美しさは、その特権か

ら生まれているのである。それは単なる品物ではない。徳の交わっている品

物である。物の美しさには必ずや道がひそむのである。私は何も貧乏人が直

ちに道徳家だとは云わない。だが道徳家で嘗て富を貪った者があったろうか。

貧乏の方がずっと徳に交わり易い事情にある。だから金持ちの方がずっと悪

に近づき易い状態にある。富者で道徳を保つのは寧ろむづかしい。貧乏だか

ら素直に保てる道徳は案外多い。謙譲の徳の如き、どんなに貧者と縁が濃い

であろう。貧者の特権を思いみないのは、吾々の傲慢による。なぜ「くらは

んか」の如き雑器に尽きない美しさが出るか、その基礎は浅いものでは決し

てない。若し吾々に充分の良心があるなら、それ等の雑器を見て、汗を覚え

るであろう。何か頭の下がるものを感じるであろう。何かそこに吾々の有ち

難い怖ろしいものをさえ見るであろう。その美しさの中には鏡としてよい幾

多のものが潜んでいる。

 早くから多くの僧侶達は貧と徳との深い結縁を説いた。私は同じように貧

と美との浅からぬ因縁に就いて思いみないわけにはゆかぬ。法は一つである。

美と徳と異なる法で組立てられているではない。あの山上の垂訓は貧の教え

で始まる。聖フランチェスコは「聖貧」をこの上なき宗旨に高めた。一切を

神に有つからには、一物をも地に要しない。僧の生活は貧の姿である。だが

神を有つ貧である。この貧より富めるものがあろうか。だから地上の富より

貧しいものはないともいえる。聖者は富を慎しんだではないか。繰り返し富

む者が天国に到り難いのを説いたではないか。富は慾に沈みがちだからであ

る。僧は出家である。捨身の僧である。信心はいつも貧の深さを讃える。

 香厳禅師の偈にいう、

 「去年の貧は未だ是れ貧ならず、

  今年の貧は始めて是れ貧。

  去年は卓錐の地なく、

  今年は錐も亦無し。」
        キリ
「卓錐の地」とは錐を立てるだけの小さな地面との意である。これが僧侶の

賛歌である。美にも亦この境地がなければならぬ。美の帰趣と見做すあの渋

さの美は、貧の美ではないか。真実の美にはどこか清貧の香が漂う。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』 62号 昭和11年3月】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)

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